父の日記


何十年ぶりかで日記を書き始めた。
?そういっていいのかな?ブログだけれど?
日記って内省しながら自分だけと向き合ってつけるものだと、
今まで思ってきたから、こういうのってちょっと胡散臭い。
書く自分も、内容も、曝すことで「虚」が生まれる。


その点、父の日記は正当だ。
何十年も書き続けてきて、死ぬ前に自分で処理できなかったら、
娘の私に「読まずに処分してくれ!」と言っている。
父が愛用しているのは「5年連用日記」だから、
一日分が物凄く内容が「濃い!」物では無いだろうが、
それでも10冊は超えている。
そういうものを横目にこうして書き込んでいると
ヤッパリ「・・・・う〜ん?」と、自分を怪しんでしまう。


そういえばこんなことがあった。
77歳になろうとする正月を目前に、
新年からの日記を買わなければならなくなった父が
「もう、五年連用日記は買わないほうがいいな。
後五年はいくらなんでも生きないだろう。」と言って更に
「ずーっと五年の物を使ってきたのだから余白を残して逝くのもいいさ。」
と続けて、孫をギョットさせた。
「おじいちゃんて凄いことを考えて生きているんだねぇ。」


確かに男性の平均寿命はその辺りだものね。
その日記がありがたいことに無事埋め尽くされ、
父はまた新たな五年連用日記を買い込んできて
「今度こそさすがに余白は残るだろう。」と嘯いた。
しかしその日記もあらかた埋め尽くされてきて、
父はこの春85歳になった!


何十年も毎晩寝る前のひと時を
日記に当てている父を見ていたはずなのに、
父に似なかった娘の私はこうして
本当に久しぶりの日記をこんな風に始めた。


「余白を残して閉じられるかも知れない日記」と、思うと
一日でも長く、ひとつでも多く楽しいことが
「書き入れられますように!」と
端正に背中を伸ばして几帳面な清潔な字で書き入れられていく
その日記に祈らずにはいられない私なのに。


ヤッパリ人の手で律儀に書き込まれる日記には、何か
「敵わない!」
という気がしている。